一九二一(大正十)年
五月十二日、三重県宇治山田市(現伊勢市)吹上町一八四番地に生まれる。父、竹内善兵衛。母、よし(芳子)。竹内家は竹内呉服店、丸竹洋服店などを手広く営む伊勢でも指折りの商家。父善兵衛は、先代善寿に見込まれて大北家より婿養子として竹内家に入るが、妻に早逝され、後添えとしてよしを大岩家より迎える。母よしの父大岩芳逸は、伊勢で医師を開業していたが、明治初年の荒廃した伊勢神宮の環境整備に私財を投げうって尽力し、その顕彰碑は、今も倉田山下の御幸街道添いに立っている。母よしは父に似て献身的な女性で、大岩家の家事を支えながら長く小学校教諭をつとめていた。結婚して、四歳上の姉(松島こう)と浩三をもうける。短歌の際に秀で、佐佐木信綱に師事。
一九二八(昭和三)年(七歳)
四月、宇治山田市立明倫小学校へ入学。小学校時代を通してとくに算数の成績が優秀であったが、その他に目立つところはなかった。
一九三三(昭和八)年(十二歳)
二月八日、母よし死亡。辞世「己か身は願もあらし行末の遠き若人とはにまもらせ」師佐佐木信綱の弔歌「志もゆきに美さをいろこきくれたけのちよをもまたてかれしかなしさ」
一九三四(昭和九)年(十三歳)
四月、三重県立宇治山田中学校入学。
一九三六(昭和十一)年(十五歳)
八月、同級の阪本楠彦、中井利亮等を誘って「まんがのよろずや」と題する個人雑誌を作り、一週間後には臨時増刊号を出す。十月、四号まで作る。世相を風刺したマンガや生地のため一年間発行停止の処分を受けるが、一年後にまた「ぱんち」と改題して復刊する。後に合本を自ら製本して残している。なお、この年、四日市市博覧会のポスターに応募して入賞する。担任の井上義夫先生(後に東京教育大学教授、日本数学教育学会会長)も驚くほど幾何学の成績抜群。ただし、教練の成績悪く、回覧雑誌の筆禍もあって、父はしばしば学校へ呼び出される。
一九三八(昭和十三)年(十七歳)
四月、柔道教師の家に身柄預かりとなる。十二月、文芸同人誌『北方の蜂』を友人たちと手づくりして創刊。翌年春の二号で終わる。
一九三九(昭和十四)年(十八歳)
三月十七日、父善兵衛死亡。宇治山田中学校卒業。上京して、浪人生活。当時日大芸術科と縁の深かった第一外国語学校という予備校に通う。
一九四〇(昭和十五)年(十九歳)
四月、それまで父の反対でかなわなかった念願の日本大学専門部(現芸術学部)映画科へ入学。
一九四二(昭和十七)年(二十一歳)
六月一日、在京中の宇治山田中学時代の友人中井利亮、野村一雄、土屋陽一と『伊勢文学』を創刊。以後十一月まで五号を出す。九月、前年十月交付の勅令第九二四号にもとづき、日大専門部を半年間繰上げて卒業。十月一日、三重県久居町の中部第三十八部隊に入営。このころ手紙を通じて、伊丹万作氏の知遇を得る。
一九四三(昭和十八)年(二十二歳)
九月、茨城県西筑波飛行場に新たに編成された滑空部隊に転属。挺身第五聯隊(東部一一六部隊)歩兵大隊第二中隊第二小隊へ配属。小隊長・三嶋四四治少尉(戦後、松竹映画制作本部長)。
一九四四(昭和十九)年(二十三歳)
一月一日、「筑波日記一 冬から春へ」執筆開始。三月末日から半月間は、初年兵入隊の受け入れ係として吉沼小学校に宿泊、日記にも生気と健康が蘇って長い思索の跡がつづられる。四月二十九日より「筑波日記二 みどりの季節」に書きつがれるが、七月二十七日、「筑波日記二」中断。十二月一日、戦時編成により滑空歩兵第一聯隊となった竹内の部隊は、西筑波飛行場を出発。主力は広島県宇品で空母雲竜に乗船したが、台湾西方にて米潜水艦の攻撃を受け沈没。積み残されて門司港から「マタ三八船団」に乗船した竹内の中隊(中隊長・館四郎大尉)は、十二月二十九日ルソン島北サンフェルナンド港に到着。たちまち猛烈な艦砲射を受けて、バギオ方面に向かう。
一九四五(昭和二十)年
四月九日、昭和二十二年三重県庁の公報によれば「陸軍上等兵竹内浩三、比島バギオ北方一〇五二高地方面の戦闘に於いて戦死」。
一九八〇年(昭和五五)年
五月二十五日、伊勢市朝熊山上に「戦死ヤアハレ」の詩碑建立。
一九八二年(昭和五七)年
八月十日、NHKラジオ夏期特集番組「戦死やあわれ」(構成・西川勉)放送。
出典:定本竹内浩三全集戦死やあわれ 小林察編 藤原書店